Sunday, May 7, 2017

以心 伝心 (心を以て心を伝ふ)

 原町飛行場で訓練に明け暮れた若いパイロットたちが息抜きに訪れるのは、本町一丁目にあった松永ミルクパーラー、同二丁目の料亭魚本、栄町一丁目の料亭柳谷などがあった。
 特攻に飛び立たなければならない運命を知りながら、飛行場の人々は休みの数時間を明るく振るまい、くったくのない話に華をさかせつつ彼等は町の人々との交際をもったのであった。(p.37)

 松永牛乳店に集まるものが、“ベコヤ編隊”と自称すれば、松浦家(柳屋)に集まるものは“本家編隊”と自称した。(p.44)

 松永ミルクパーラーの美喜子さん(当時十五歳)は、原町飛行場関係者のことを、当時の日記をもとにしながら『いのち  ―  戦時下の一少女の日記』にまとめている・・・

 
一月八日

淋しい。今夜はどうしたわけか淋しくて仕方がない。にぎやかに皆で話していながらも・・・・・・。

久木元さん齊藤さんの面影、かわるがわる浮かんでくる。あゝ誰か、・・・・・・久木元さんか、斉藤さんか、寺田さんか・・・・・・

決行なされたのぢゃないだろうか。


 二十年一月八日の日記だが、実はこの日、寺田伍長(当時一九歳)は[単機、敵輸送船に突入し]リンガエン湾に散っていた。一九年八月から九月まで、少年飛行兵一三期の人々は原町で過ごした。同期二七人のうち戦死二〇人。当時、松永牛乳店はほそぼそとながら牛乳やアイスクリームの店をひらいていた。喫茶店などない田舎町である。彼ら少年[飛行兵]たちの外出日は、店は満員で椅子のあくことがなかった。寺田さんのグループもよくこられ、縁側に回って茶を飲みながら弁当をひらいたりしたこともあった……。(p.38)

『嗚呼 原町陸軍飛行場』

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一月八日の命日に[自分の日記に]この文章が書かれていた事を、私自身、三十年後まで知らなかった。この『秋燕日記』を編集中にその事に気付き、私自身とても感動した。この日の日記を何と解したらいいのか、偶然と言うべきか、少女の心が感じとったあの方の惜別の思いだろうか。

八牧美喜子『いのち ― 戦時下の一少女の日記』