Saturday, December 24, 2011

『死後はどうなるの?』どうぞ良い死後を!


 人が嘘をついたとしたら、三つのアパーヤ[=地獄]のどこに行くのでしょうか。それは嘘の強弱によります。回数が少なければ、そんなに大罪になりません。それよりひどいのは、罪を正当化することです。
 これはものすごく危険です。悪いことをしても、「それはしょうがないよ。やらないといけない状況だったんだから」といって正当化してはいけないのです。罪を正当化すれば、罪が重くなります。小さな罪が大罪にまで膨らむのです。・・・
 
 罪の正当化と並んで、罪の意識がないことも危ないのです。・・不正を続けていると罪の意識がなくなるでしょう。五,六年続けると、あたりまえのことになってしまいます。・・だからといって罪がないとはいえないのです。・・知恵の開発に欠かせない脳の機能を破壊しているのですから。(p.190)
   Aスマナサーラ『死後はどうなるの?』

 要約すると、もし悪いことしたまま死んだら、

①罪や、ついた嘘などの強弱

②その回数

③それを正当化するか

④罪の意識があるか、ないか

・・などの条件によって次に生まれるところが自動的に決まる。


 またほとんどの者がそうだろうが、すでに罪を犯している者が

良い所に生まれ変わりたいなら、

①罪をくり返さない

②懺悔する

③犯した罪よりたくさんの良いことをする

・・ことで罪が弱くなる

     
  さて以前、読んだ司法試験合格のための本に「試験に受からなかったら死刑になると思って勉強せよ」という言葉があった。司法試験はそれくらい自分を厳しく律せねば受からぬ難関であるのはいうまでもないが、しかし実は哲人パスカルが言ったとおり「人は皆、死刑を宣告されている」のであり必ず死ぬものだ。ただ本当にそのような場に遭遇するまでは実感がないため、死に関して、己に都合の悪い事実はすべて無視し、いい加減な見解しか持ちあわせていないのが平凡な人間の常である。「死んだら意識も何もないから心配しなくてオッケーだ」とか、死後の意識というものがあっても「神や仏が生前の悪行を全部チャラにしてくれるからダイジョーブだあ」、等などである。

 それでも世の中には、死という関門の厳しさに前もって気付き、最悪の場合も考慮して心の備えをする者も少なからずいる。すなわち上記スマナサーラ長老著『死後はどうなるの?』で説かれる如く、地獄があったら困るような生き方は避ける、道徳的な人間である。

 さて冒頭の司法試験の喩えで言えば、「試験なんてものは本当は存在しないんだよ、空(くう)だ」とか、「神や仏に祈ってりゃ努力なんてしなくても司法試験だって皆、合格できるさ」、と教える者の言うことを聞くのだろうか?それとも昔から難しいといわれている関門なのだから「最善の努力しなければ善い結果は得られませんよ」と説く者の言うことを聞くのだろうか?

このブログの読者諸兄はどのタイプだろうか?


善い領域(=天)におもむく人々は少ない。
悪い領域(=地獄など)におもむく人々は多い。
このことわりをあるがままに知ったならば、
安らぎ(ニルヴァーナ) に専念するものとなるであろう。
 『感興のことば=ウダーナヴァルガ』26.8